《中国の不思議な役人》の作曲、上演、受容、出版、研究等に関わる歴史です。作品への理解を求めて格闘するバルトークの姿が垣間見えます。亡命のきっかけとなる母親の死やナチスの進行よりも以前から、周囲との葛藤があったかもしれません。
1912年(大正元年)バルトーク31歳
ディアギレフ率いるバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)がブダペスト公演。この時にディアギレフが『中国の不思議な役人』をレンジェルに依頼したという説があるが、根拠はない。
1913年(大正2年)バルトーク32歳
5月29日、ストラヴィンスキー《春の祭典》世界初演。
1914年(大正3年)バルトーク33歳
7月28日、第一次世界大戦勃発、ハンガリーはドイツ・オーストリア側に参戦
1916年(大正5年)バルトーク35歳
レンジェル、原作となる「中国の不思議な役人—グロテスクなパントマイム」を執筆
1917年(大正6年)バルトーク36歳 100年前!
1月1日、文芸誌『ニュガト(西方)』1917年1号がレンジェルの「中国の不思議な役人—グロテスクなパントマイム」を掲載
1月17日、日刊紙『エシュティ・ウーイシャーグ』が バレエ・リュスとレンジェルのパントマイムとの関係を主張、舞台化を予言
2月、雑誌『マ(今日)』がバルトークを特集
3月、ロシア三月革命
5月12日、 バレエ《かかし王子》世界初演(タンゴ指揮、ブダペスト歌劇場)、バルトーク出席
1918年(大正7年)バルトーク37歳
1月、バルトーク、ウニヴェルザール(ユニヴァーサル)社と全作品の出版契約
3月28日、恩師のトマーンからバルトークへ『中国の不思議な役人』の作曲を勧めるはがき、レンジェルを交えた食事を提案(実現せず)
5月24日、歌劇『青ひげ公の城』世界初演(タンゴ指揮、ブダペスト歌劇場)、バルトーク出席、レンジェルが参会し感銘を受ける
6月21日、バルトークとレンジェル、《中国の不思議な役人》の作曲について契約を交わす
7月、前半妹宅でくつろぎ、 後半最後のルーマニアの民謡調査旅行
8月、美術鑑定家で友人のケーナー男爵邸でくつろぐ
9月5日、夫人への書簡で作曲のアイディアを報告
9月14日、友人のブシティアへの書簡で作曲開始を報告
10月25日、ハンガリー国民会議の成立
11月13日、国民会議がハンガリー共和国の独立を宣言
1919年(大正8年)バルトーク38歳
この歳、『春の祭典』4手ピアノ版を夫人やドホナーニと連弾して研究する
3月21日、ハンガリー=ソヴェト共和国の成立宣言
5月14日、バルトーク夫人の書簡に《中国の不思議な役人》の完成(スケッチ、4段譜)の記載(これを「作曲年」とする見方が多いが、現在知られている曲とは異なる箇所が多い)
6月9日、バルトーク夫人、バルトークの母親に書簡でオーケストレーション開始の報告(実際には1ページも書いていない)
7月5日、レンジェル、バルトークが《中国の不思議な役人》をピアノで聞かせたと日記に記す
11月19日、ルーマニア軍、ブダペストを撤退
1920年(大正9年)バルトーク39歳
1月10日、バルトーク、レンジェルへの書簡で窮状とオーケストレーションの開始の遅れを報告「1ページも書いていない」
2~3月、バルトーク、ベルリンを訪問
6月4日、トリアノン条約が発効、ハンガリーは旧領土の72%、人口の64%を失う
1921年(大正10年)バルトーク40歳
3月、音楽雑誌『ムジークブレーター・デス・アンブルーフ』、バルトーク40歳を祝って特集
1922年(大正11年)バルトーク41歳
3~4月、ロンドンやパリを訪問、ストラヴィンスキーやラヴェルと会う
5月13日、フランクフルトで《青ひげ公の城》《かかし王子》外国初演(センカール指揮)、バルトーク出席
1923年(大正12年)バルトーク42歳
この年マールタと離婚、
5月、ロンドンを訪問
8月23日、ディッタと再婚
10月1日、ブダペスト歌劇場支配人のウラシッチュ男爵、書簡で《中国の不思議な役人》の世界初演に意欲
11月19日、《舞踊組曲》世界初演
1924年(大正13年)バルトーク43歳
5月か6月、オーケストレーションの開始
6月5日、バルトーク、ブダペスト歌劇場への書簡でオーケストレーションの開始を報告、前半は7月中旬、後半は 9月中旬に完成予定(その後遅れる)
7月31日、次男ペーテル誕生
夏から秋、オーケストレーションに専念
11月か12月、フルスコア完成、4手ピアノ版も完成
12月、雑誌『新ペストジャーナル』クリスマス号で《中国の不思議な役人》のフルスコア完成が報告
1925年(大正14年)バルトーク44歳
2月、新聞『マ・エシュテ』でオーケストレーションの完成が報告
ウニヴェルザール社、4手ピアノ版の楽譜を出版
1927年のブダペスト初演に向けて写譜屋が楽譜を準備
2手ピアノ版完成
1926年(大正15/昭和元年)バルトーク45歳
2月1日、バルトーク、ブダペスト歌劇場の経営陣と交渉決裂
4月8日、《中国の不思議な役人》4手ピアノ版(部分)放送初演(バルトークとコーシャ、ラジオ・プラハ)
9月6日、演奏会用に短縮した版を構想([36]~[37]の終わりまでと[45] の6小節前から[75]の2小節後までと特別なエンディング、実現せず)。
11月27日、パントマイム《中国の不思議な役人》世界初演(センカール指揮、シュトローバッハ振付、ケルン国立劇場)、2日め以降中止、センカールは市議会から譴責
12月、音楽雑誌『ムジークブレーター・デス・アンブルーフ』でウンゲルが初演スキャンダルを報告
12月3日、バルトーク、ウニヴェルザール社への書簡で71~76カット等の変更点を指示
12月14日、『ペスティ・ナプロー』、ハンガリー文化省がブダペスト歌劇場での上演の可否を決定すると報道
1927年(昭和2年)バルトーク46歳
2月、ブダペストでの《中国の不思議な役人》上演計画が中止
2月3日、現在の演奏会版(組曲版)完成。ウニヴェルザール社への書簡で「これまで書いた最高の管弦楽作品」としながら、全曲版上演の可能性が低いことを嘆く
2月19日、パントマイム《中国の不思議な役人》再演(プラハ)バルトークは欠席、まもなく上演禁止
年末、《中国の不思議な役人》組曲のフルスコアがウニヴェルザール社より出版
12月、アメリカへ初の演奏旅行(~3月)
1928年(昭和3年)バルトーク47歳
9月13日、《弦楽四重奏曲第三番》最終稿完成
10月14~15日、《中国の不思議な役人》組曲初演(ドホナーニ指揮、フィルハーモニー協会管弦楽団)
10月16日、 『アズ・エシュト』、ブダペストでの再度の上演計画と主役名を報じるが根拠に欠ける
10月16日、バルトーク、ウニヴェルザール社にスコアに説明をつけるよう依頼
1929年(昭和4年)バルトーク48歳
4月16日、ブダペスト歌劇場のラドナイ監督、『アズ・エシュト』のインタビューに答えて《中国の不思議な役人》上演計画を語る
10月24日、世界経済恐慌始まる
1930年(昭和5年)バルトーク49歳
10月9日、『アズ・エシュト』翌年3月バルトーク50歳の誕生日にブダペストで再上演の計画(ファイロニ指揮、マールクシュ振付)を予告、この公演の筋書きの変更に対応するため合計42小節をカット
1931年(昭和6年)バルトーク50歳
2~3月、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を、ハンガリーのホルティ摂政からコルヴィナ花冠を受賞
3月16日、マールクシュ監督が『アズ・エシュト』の記者に物語の変更を説明
3月17日、『アズ・エシュト』、ブダペスト公演の予定を掲載
3月23日、ハンガリー王立歌劇場「少女役サライの病気で4月に延期」を公式発表
3月24日、『アズ・エシュト』、歌劇場の延期発表に懐疑
3月25日、この日に計画されていたブダペスト公演は延期~中止
1934年(昭和9年)バルトーク53歳
3月17日、イタリア・オーストリア・ハンガリー三国政治経済協定
1936年(昭和11年)バルトーク55歳
1月29日、バルトーク、新しいエンディングを用意、スコアとパート譜に反映するよう出版社に申し入れる
1937年(昭和12年)バルトーク56歳
バルトーク、ブダペストのミロス・バレエ・スタジオでバレエによる練習を視察
1939年(昭和14年)バルトーク58歳
9月1日、第二次世界大戦勃発
夏、スイスのザーネンでパウル・ザッハーの別荘に滞在、《弦楽のためのディヴェルティメント》を完成、《弦楽四重奏曲第六番》にも取り組む。
12月、バルトークの母親死去、バルトークの亡命の意志を決定づける
1940年(昭和15年)バルトーク59歳
4月~5月18日、バルトーク、アメリカへの2度めの演奏旅行(亡命の下調べ)
10月、バルトーク、アメリカに亡命
これ以降のバルトーク本人の動向は、バルトークのアメリカ生活に移ります。
1941年(昭和16年)バルトーク57歳
2月6日、バルトークの生誕60年記念のブダペスト初演される予定が、「少女役サライの病気で延期」で公演中止。
3月、デヴェセリ、文芸誌『ニュガト』1941年3号にエッセイ「《中国の不思議な役人》の不思議なインフルエンザ 」(ハンガリー語)を掲載。
4月、サボルチ、文芸誌『ニュガト』1941年4号にエッセイ「バルトーク60歳」(ハンガリー語)を掲載
1942年(昭和17年)バルトーク58歳
10月12日、ミラノ・スカラ座で公演(フェレンチク指揮、ミロス振付、プランポリーニ舞台装置)
1944年(昭和19年)バルトーク63歳
3月19日、ドイツ軍、ハンガリーを無血占領。
1945年(昭和20年)バルトーク64歳
9月26日、バルトーク死去(ニューヨーク)
12月9日、ブダペスト初演(ブダペスト歌劇場、フェレンチク指揮、ハランゴゾー振付)、修正されたものながら、すぐに演目から追放
スカラ座、ローマ公演(ミロス振付)
1949年(昭和24年)
12月9日、ブダペスト歌劇場で再演。
アメリカでペーテルがバルトーク・レコーズを設立。
1950年(昭和25年)
2月5日、共産党機関誌『サバド・ネープ』、バルトークの舞台作品を批判
1951年(昭和26年)
9月6日~、アメリカ合衆国初演(バレエ:ニューヨーク・シティ・バレエ団、振付:ボレンダー)、ヨーロッパ以外では初の公演となった
シェルリ指揮、ニュー交響楽団が初の録音(ロンドン)、バルトーク・レコーズからLPレコードが発売(絶版。CDのみ)。
1954年(昭和29年)
1月8日~9日、ドラティ指揮シカゴ交響楽団が録音(シカゴ)
この歳、スカラ座、フィレンツェ初公演(振付:ミロス)
1955年(昭和30年)バルトーク没後10年
4月、サボルチ、『シラグ』誌に論文「中国の不思議な役人」(ハンガリー語)を発表
ウニヴェルザール社、全曲のフルスコアを出版(1928年の演奏会版の版下に後半を加えたもの。1931年のブダペスト公演用に基づいたために30小節不足)
同社、ミニチュアのスタディスコア、4手ピアノ版の第3版を出版
1956年(昭和31年)
6月1日、ブダペスト歌劇場で再演(指揮:ケネッセイ、振付:ハランゴゾー)完全な形での初の上演
サドラーズ=ウェルズ・バレエ団公演(振付:ロドリゲス)
10月23日、ハンガリー動乱、ナジ政権が誕生するがソ連の介入で2週間後に鎮圧
1957年(昭和32年)
ウィーン国立バレエ団公演(振付:ハンカ)
スカラ座、リオデジャネイロ公演(振付:ミロス)
1958年(昭和33年)
ジャニーヌ・シャラ・バレエ団公演(振付:ヴァシェジ)
1960年(昭和35年)
バイエルン国立歌劇場バレエ団公演(振付:カーター)
3月1日、ゼルキン指揮ニューヨークフィル組曲公演(ニューヨーク、ライヴ録音)
1961年(昭和36年)
レントヴァイ、『スタディア・ムジコロジカ』誌に論文「"中国の不思議な役人" 作曲の秘密」を発表(ドイツ語)。独自の理論を展開。
ボリショイ・バレエ団、『夜の街』のタイトルで上演(振付:ラヴロフスキー)
スカラ座、ケルン公演(振付:ミロス)
1962年(昭和37年)
ニルシー、『スタディア・ムジコロジカ』誌に論文「"中国の不思議な役人" の変更点」を発表(ドイツ語)。スケッチの楽譜を引用しながら解説。
1964年(昭和39年)
1月、ヴィントン、『ザ・ミュージック・クオータリー』誌に論文「"中国の不思議な役人" の真相」(英語)を発表。旧エンディング等の楽譜を引用しながら解説。
1995年(平成7年)バルトーク没後50年
ランペルト、論文「"中国の不思議な役人" メルヒオル・レンジェル、彼のパントマイムとベーラ・バルトークとの関係」(英語)を発表。
2000年(平成12年)
ユニヴァーサル・エディションが《中国の不思議な役人》改訂版を出版。ミニチュアスコアはフィルハーモニアPH550。
ダウンズ、『ロイヤル音楽協会ジャーナル』に論文「都市のエロス:バルトークの"中国の不思議な役人"」(英語)を発表。
2001年(平成13年)
米国バルトーク・レコーズからバルトーク/レンジェル『中国の不思議な役人』発売。
2010年(平成22年)
9月15日、全音楽譜出版社がミニチュアスコア《中国の不思議な役人》組曲を発売。2000年改訂版に準拠。村上泰裕解説、村上泰裕・渡辺純一校訂。
2011年(平成23年)
3月、日本楽譜出版社がミニチュアスコア《中国の不思議な役人》(全曲)を発売。2000年改訂版に準拠。青島広志解説。
年齢は誕生日後のもの。3月24日以前の出来事は「-1歳」で読み変えてください。
【参考文献】
Bartók, Peter 1999 Preface, Der Wunderbare Mandarin (PH 550), 1999, Universal Edition
Bónis, Ferenc: The Miraculous Mandarin. 2022, Bartok Records
Percival, John 1991 The Miraculous Mandarin: Performance History. The Stage Works of Bela Bartok, 1991, English National Opera
矢田俊隆『ハンガリー・チェコスロヴァキア現代史』1978/1994、山川出版社