これまでの歩みを簡単に振り返ります。
2015年(バルトーク・レコーズ・ジャパン6年め)
1月にペーテルが自宅で転倒し、腰の骨を折って入院。リハビリの効果なく、車椅子生活になりました。資金不足もあって、お見舞いを兼ねた91歳のお誕生日祝いの訪問は断念しました。
年間の売上げはこれから計算しますが芳しくなく、1月にカンパをお願いするも1件にとどまり、千羽鶴贈呈の計画も暗礁に乗り上げました。
年末にアカデミア・ミュージック様より、自主製作の《7つの合唱曲》の管弦楽セットの新規発注をいただけたことが朗報です。また同じ頃、右の写真が届いたことにも安堵しました。ベーラ・バルトークの生誕70周年、その著作権の保護期間が世界的に終了しました。
2014年(バルトーク・レコーズ・ジャパン5年め)
『父・バルトーク』の発売を喜びつつ、次の目標が定まりません。2012年に自費出版した《7つの合唱曲》の楽譜がほとんど売れず、次の計画に着手する意欲が高まりません。生活のため学校勤務の日数を多めにし、そのために時間が取られています。前年にアメリカから持ち帰った自筆資料もいまだ生かせずにいる中、ペーテルの90歳という節目をお祝いするために4度めの訪問を決行しました。滞在報告はこちら。
年間の売上げは再び10万円ほどに落ち込みました。飛行機代にもなりません。
2013年(バルトーク・レコーズ・ジャパン4年め)
『父・バルトーク』翻訳完成の見通しが立ち、教育事務所からのオファーもあって2月から学校勤務を再開しました。7月31日、ペーテルの89歳の誕生日に3度めの訪問を果たし、完成した本を贈呈しました。また、その帰りにニューヨーク市内とサラナクレイクのバルトークゆかりの場所を訪ね、鮮明な写真をアルバムにしてペーテルに贈りました。
下半期はこのホームページを立ち上げ、Amazon.co.jpへの出品も開始しました。『父・バルトーク』がマスコミに取り上げられ、多くのバルトーク・ファンと出会うことができた年です。
年間の売上げは少し回復して約20万円。
2012年(バルトーク・レコーズ・ジャパン3年め)
4月に全音スコア《青銅の騎士》が発売されると、その後は楽譜製作も学校勤務もほとんど引き受けずに自宅に引きこもり、『父・バルトーク』の翻訳に専念した1年間でした。ほぼ無収入にもかかわらず、前年度の収入による住民税と健康保険料に苦悩。
この間、昨年までの売上金の一部を利用して《7つの合唱曲》の楽譜を自主製作しましたが、販売は低調。バルトーク・レコーズ商品はもう日本のファンに行き渡ったのか、年間売上げは約10万円に落ち込み、ペーテルに対してはメールを介したメンタル面のサポートだけでした。
この年、米国バルトーク・レコーズと大手出版社との関係が好転し、それらを通してバルトーク・レコーズの楽譜と書籍が再び日本の店に入ってきました。バルトーク・レコーズ・ジャパンの設立意義は少々怪しくなりましたが、ペーテルにとっては良い形でした。
2011年(バルトーク・レコーズ・ジャパン2年め)
3月、東日本大震災を身近に体験。全音スコア《シバの女王ベルキス》《ローマの祭》《赤いけし》の解説と浄書を立て続けに担当。しかも半年以上の常勤の学校勤務もあり、経済的に安定したのと引き替えに、ペーテル支援に費やせる時間が激減しました。『父・バルトーク』の出版社がスタイル・ノートに決まったことも大きな進展でしたが、5年経っても翻訳が終わらないことに焦っていました。
品物の年間売上げは30万円強。
2010年(バルトーク・レコーズ・ジャパン1年め)
3月末、21年間務めた中学校教諭を早期退職。4月、猛烈に不安な船出。アメリカから届いた品物に日本語解説をつけ、6月にヤフー・オークションに出品開始しました。主要な音楽大学図書館にご挨拶回りもしました。
その頃、全音からの夢のオファーがあり、全音スコア《中国の不思議な役人》の解説・校訂を担当、その後も解説と浄書で働けることになりました。地元の学校からのオファーで、少しの間ですが教壇にも復帰しました。また、2年前から製作に協力していた《ベーラ・バルトーク 初期のピアノ作品集》が10月に米国バルトーク・レコーズから出版されたことも大きな喜びでした。まるで神様がついているような1年間でした。
バルトーク・レコーズ・ジャパンの品物の年間売上げは30万円弱でした。
2009年
8月にペーテルの元に滞在。3日間のほとんどを、翻訳中の『My Father』の固有名詞の発音(約300ヶ所)や本文の詳細の確認に費やしました。本文に関連してペーテルが 「父は~だった」「コダーイは~だった」と昨日のことのように語られるのは、まるで歴史の中にいるような感動でした。人名・地名の確認はハンガリー語の発音の個人レッスンでもありました。特に思い出深いのは、夕食の前後、85歳のペーテルが運転するベンツでハイウエーを爆走したことでしょう…一度ならず(苦笑)。
村上「3年前にお邪魔したとき『ここを訪問した最初の日本人』とおっしゃいましたね。」
ペーテル「そして2番めもキミだ。」
村上「ここは私にとって『聖地』です。」
ペーテル「私にとっても『聖地』だ。」
さすがの切り返し! 笑いがあふれた3日間でした。この時、私もバルトーク・レコーズに勤務して校訂を手伝いたいと粘ったのですが、ペーテルの高齢を理由に断られました。
2000年にペーテルの改訂への協力をやめた大手出版社はその後もペーテルの自費出版物だけは販売していましたが、この年に販売からも手を引いたため、米国バルトーク・レコーズの楽譜と書籍は日本へのルートが絶たれました。このことが大きな引き金となり、私は日本で販売協力することを決心しました。
2006年
9月、マイアミで開かれた作曲家アルフレッド・リード氏の没後1周年行事に参加する途上、ペーテル宅を初めて訪問しました。ペーテル・バルトーク氏や編集者のピーター・ヘニングス氏、ネルソン・デラマジョーレ氏らの歓迎を受け、すっかり舞い上がりました。《中国の不思議な役人》の自筆譜コピーを机に広げ、2000年の改訂の細部や残された問題点を真剣に討議(右の写真)。この時ペーテルの著書『My Father』の翻訳許可をお願いしました。訪問記は『音楽現代』2007年3月号に掲載されています。
ペーテルとの出会いは計り知れない喜びでしたが、この訪問以降、ペーテルから苦難の人生について打ち明けられるようになりました。驚きの事実ばかり…。その詳細を語ることはペーテルから止められています。
2003年
(ごく初期のメールを発掘。記憶が曖昧だったペーテルとの出会いは2003年2月だった模様)
2月、ネット上で米国バルトーク・レコーズのウェブサイトを発見。「この会社にペーテル・バルトーク氏はいらっしゃるのですか?」とメールすると「私がペーテルだが」とご本人から返事が届いて歓喜しました。当時78歳。しばらくは《中国の不思議な役人》の改訂の経緯や、それでもまだ直っていないと思われる箇所についてメールのやりとりが続きました。